高麗恵子 陸奥新報「土曜エッセー」(2008年1月12日)より
出会い
幼い頃から父に「高句麗王直系子孫である事」を毎日聞き育ちました。先祖と自分の人生の関わりが理解出来ぬまま、それでも先祖と自分の人生の関わりが理解出来ぬまま、それでも先祖高句麗の事をいつも心に生きてきました。3才の頃、母と共に過ごした夕暮れ時、ふと見上げた大空を今でも忘れることが出来ません。昔この空を見ていた人は今、何処にいるのかしらと感じた時、人間とは何か、どう生きていくのか等々を考えはじめ、答えを求め、生きはじめたのです。
答えを得られずに心身共に病み、24才の時にはどん底まで落ちてしまいました。自分の生命が長くはない事を感じ、死を真正面に受け止めた時、自分は何の為に生まれてきたのだろうかと考えました。24才で死ぬ為に生まれてきたと考える事は、やりきれなく納得出来る事ではありませんでした。何もわからず、本当の事もわからぬまま死ぬ事だけは耐えられず、口癖の様に「病気で死ぬ事より真理をわからずして死ぬ事の方が辛い」と家族に話していました。
生きている間に本当の事だけはわかりたいと望み療養生活をしていた時、友人の誘いでお会いした方が斎藤忠光さん(現アーティスト名いだきしん)でした。斎藤さんは、当時弘前に住んでおられ、たまたま東京にいらっしゃった時にお会いする事が出来ました。
弘前という地名をはじめて知ったのは小学校の頃です。北の大地に美しく清らかな桜の花が咲く光景と弘前という地名がひとつとなり、ほのかなときめきが生まれた事を思い出しました。あの時感じた事は真であったと今、はっきりとわかるようになりました。斎藤さんとの出会いにより私の人生は開かれたのです。
斎藤さんは、私の事をよくわかって下さり、演奏して下さるピアノの音は、私の心の奥深くまで響き、今までに誰にもわかってもらえずに一人で苦しんだり、言うに言われぬ深い悲しみがそのまま表現され、解放されていく経験をしました。そして父から毎日聞いていた先祖高句麗の歴史の真実までもがわかっていける感受性が生まれ育っていったのです。
高句麗の歴史は私の生命の内に受け継がれ、性格となっている事や運命ともなっている事を理解した時、病んでいた身心がどんどん回復しはじめ、気づいたら健康で生きられる様になっていたのです。親や先祖の生き方を受け継ぎ、自分も又繰り返し生きていく事の悲しみを幼い時から感じていた私は、解放され本当の自分を見い出し、本音で生きる様になり、人生はすっかり開かれました。
自分の事がわかると、自分が元気で生き生きと生きられる道をつくり、環境も変えていける様になりました。本音は自分が輝き、人も喜んでくれ、仕事がは良い成果を生み、社会に役立てるという矛盾や犠牲のない生き方を見い出しました。そして、幼い頃から願っていました世界の平和をつくっていけるはたらきが出来る人生となりました。
出会いは人生を開きます。私は自分の人生に起こった事を世界中の人に正しくお伝え出来れば、役に立てると考え、1998年から「高句麗伝説」という作品作りがはじまりました。高句麗の地を辿り、中国、北朝鮮、韓国への旅が終えた時、私の両親は亡くなりました。
私は、悲しみに沈み、先を創る事なくして生きていけない事を身にしみ、先を創る為に更にルーツを辿りフェニキアへ。そして飢餓の支援をしていたエチオピアは、人類発祥の地でもあり、人類のルーツを辿り、「源はひっとうであり、愛」を表す「高句麗伝説」が完成し、世界を巡るようになりました。出会いから世界を駆ける人生となりました。
高麗恵子 2008年1月12日 陸奥新報「土曜エッセー」より